岩手県山田町・大槌町のいま

東日本大震災緊急・復興支援の完了にあたって

 

2011年3月11日に発生した未曽有の震災から8年。

FIDRは、震災直後から岩手県山田町・大槌町を中心に緊急救援・復興支援活動を行ってまいりましたが、

現在進めている山田町飯岡・長崎地区の集会施設の再建をもって8年間の活動に区切りをつけることとなりました。

 

このページでは、山田町と大槌町のいまについて、FIDRの活動だけではなく、山田町や大槌町の方々からの生の情報を含め、約1カ月にわたりお届けします。

 

※記事は、日付の新しい順に掲載されています。

(配信中の記事)

4月26日:そして、これから(山田町)

4月24日:復興からその先へ(山田町)

4月19日:東日本大震災から8年(山田町)

4月15日:被災者の方々の現実(山田町)

4月10日:大槌町の漁業のいま(大槌町)

4月  5日:まちの元気は大槌の海から!(大槌町)

4月  1日:山田の海から持続可能な社会を(山田町)

3月27日:ひろがる地域の交流「花輪田地区集会所」のいま(大槌町)

3月22日:町を楽しもう!「大沢川向コミュニティセンター」のいま(山田町)

3月18日:五感で楽しむ体験プログラムで山田町の魅力発信(山田町)

3月  8日:集会施設の再建支援を行っています(山田町)

 

 

4月26日:そして、これから(山田町)


山田町飯岡コミュニティセンター落成式の懇親会(4月25日)。子どもから大人まで、地域の人たちに愛され、皆が集う場所となりますように

  

4月25日。

山田町飯岡・長崎地区に完成した「飯岡コミュニティセンター」の落成式が執り行われました。

心配された雨も、式典の最中はぴたりとやみ、多くの町民の皆さんにご出席いただきました。

飯岡地区住民自治会の阿部照實会長、山田町飯岡老人クラブの佐々木鋼文会長らが、式典のあいさつで「子どもから大人まで、みんなが笑顔で集える場所に」と仰っていたように、式典後の懇親会では、まさに子どもから大人までが一緒に笑顔で踊りを楽しみました。

 

FIDRは、これをもって、8年にわたる東日本大震災緊急・復興支援活動を完了いたします。

しかし、これは「縁」の終わりではありません。FIDRを通じて、山田町・大槌町をご支援くださった方、両町について知った方、実際に訪れた方、そして両町の皆さんとのつながりは、これからも続いていくことでしょう。

 

 

4月24日:復興からその先へ(山田町)


中居知子さん(元FIDR職員)

山田町大沢川向コミュニティセンターにて。写真左端が中居さん(2017年4月撮影)

  

山田町に住むわたしたちには、復興のその先がどんなものか、未だ描けずにいる。

しかし、8年前の景色さえ記憶から薄れてしまうほどに、それは長い時間だった。

震災前と比較して、今の山田町はどうだろうか。

 

某コンビニチェーン店の山田町進出、東京の美容師さんがおしゃれな美容室を開業。町内の小・中学生が気軽に集える図書館ができ、その図書館が読書だけでなく、おしゃべりを楽しむコミュニティスペースとなっていることなど、人々の存在やその動きが以前より際立っているようにも感じる。

 

 

  

また、以前は満点の星空しか見えなかった山田町の夜が、今では公営住宅団地群の生活の灯りが山田町をオレンジ色に照らし、やさしく心暖かい印象の夜景となった。

加えて、三陸縦貫自動車道が順次開通し、花巻方面や仙台方面などへの移動が円滑になり、他県ナンバーのトラックを朝早くから見かけるようにもなった。

 

  

こうして、以前と比較してみると、改めて東日本大震災から経過した8年の月日の長さを感じる。

しかし、震災により過去を振り返ったことで、これから先の将来を描く必要性と責任を持って感じざるを得ない。

FIDRが持つ意識に触れ、時間や感情を共有したことにより、立ち上がり動き出した人々も少なくないのではないか。

わたし自身もそのひとりであり、FIDRで過ごした4年間を礎に、現在も他団体の一員として同様の活動を行っている。

意思をもった人々が自らで動き出した事実こそが、FIDRが山田町に残してくれた置き土産であると、今、感じている。

 

自ら動き出した町の人たちと一緒に交流企画をし、実施していた中居さん。その足跡は、山田町のコミュニティづくりのモデルとしてしっかり残っています。

 

 

4月19日:東日本大震災から8年(山田町)


中村郁子さん

みんなで心をひとつにして作った10メートルの太巻き。FIDRは、様々な活動を通してコミュニティづくりを後押ししてきました(2017年2月撮影)

  

未曽有の出来事の悲惨な状況を目のあたりにして、放心状態で立ちすくんだこと、忘れられません。

山田町も8年かけた復興の実体感は見えますが、まだまだ空地が目立ちます。

 

3月23日は、三陸リアス線開通で、祝旗を大勢の町民がふって喜びあいました。多くの方のご支援、心より感謝申し上げます。

 

私も、地震による地盤沈下で家が傾き、解体したため、避難所から仮設など4か所を移転しながら、ようやく平成27年2月12日に、元の山田町長崎地区に家を建て、住んで3年目を迎えました。私の復興は「失った家を建てること」と、頑張りました。

 

私の居住する長崎地区は、昭和53年度に都市計画がなされ、昭和58年度に新町名ができました。長崎1丁目~4丁目と飯岡地区は、町内で一番世帯数が多く、当時自治会を発足し、地域住民の防災対策に取り組みました。私は、消防庁と防災センターの建設に向けて土地探しや寄付集めにいろいろと苦労された先輩方を知る一人です。役員(副会長)とてその当時を知る者として残っているのは私一人です。

 

この震災で、防災センターのあった長崎1丁目一帯が津波と火災で全滅状態でした。

それでも、都市計画によって飯岡地区には公園が4か所あったためそこに仮設住宅が建てられ、山際や畑、空き地も利用され、飯岡に仮設住宅が集中し、住民の暮らしを助けてきました。

 

それも、8割は撤退完了。

小学校の校庭に建てられていた仮設住宅も完全に撤退し、現在、私の家の前にある公園の仮設住宅のみ、全部入居者がおり、いまだ不自由な生活を続けていらっしゃいます。

「もう少しの辛抱」と願っております。

 

 

中村さんがお住まいの長崎地区内に建てられた復興住宅(左)と戸建ての住宅(右)

  

周辺には山や田んぼがありましたので、新たに宅地造成して個人の住宅もたくさん増え、田んぼを埋め立てて3階建ての町営住宅や戸建てもでき、平成30年11月に入居して住んでいらっしゃいますが、全く入居者同士のコミュニケーションが取れず、静かです。出入りは見られず、夜になって部屋に電燈がついて、その光で周りがライトアップされ、ポツンと目立ちます。

 

入居者は高齢者が多く、一人暮らしや少数家族が多いようです。

私も知り合いがいますが、この地区にはコミュニティがありません。自治会としても、コミュニティづくりが大きな課題で、これから取り組んでいかなければなりません。

 

今度、FIDRのご支援により、待望の「飯岡コミュニティセンター」が完成。4月25日に落成式が開催され、5月1日から使用が開始されます。

関係者の方々は、はやくもコミュニティセンターを活用して集まり、この大世帯の飯岡地区を、大人も子どももみんな笑顔で楽しく暮らせる町にしようという気持ちでいます。行政はじめ、飯岡地区自治会を中心に、人生豊富な老人会、そして私こと「郁子とその仲間」や、住民のみんなで力を出し合って、暮らしやすい町づくりに努めます。これこそが、支援して下さった方々への感謝と恩返しだ、と頑張りたいと思います。

  

「大人も子ども一緒になって、笑顔で楽しい町づくり」のため、中村郁子さんご自身もこれまでいろんな活動に積極的に参加されてきました

  

最後になりましたが、山田事務所のFIDRスタッフの皆さんのご支援により、「郁子とその仲間」で実施した山田センベイづくりや田植え、餅づくり、そして「山田音頭」をみんなで踊ったり、10メートルもの太巻きづくりに挑戦したり、など、震災後の楽しい想い出となっています。

 

何よりもコミュニティづくりへのお力添えに感謝申し上げます。

 

  

4月15日:被災者の方々の現実(山田町)


中村剛さん(元FIDR職員)

「ほっこり足湯カフェ」にて。コミュニティ再構築のため、様々な活動を実施されていた中村さん(2014年10月山田町豊間根災害公営住宅にて)

  

平成31年3月11日、東日本大震災から8年が経ちました。

 

私は、今も仮設住宅に住んでいます。

入居した当時は、30余りの世帯が入居していて、自治会を結成し、支え合ってきましたが、現在は6世帯となりました。

この自治会も、再建した自宅や復興住宅への転居がはじまり、世帯数が少なくなったことで、約2年前に解散しました。

 

今入居している方々は、自宅再建や復興住宅への転居を待つ方々です。

平成31年度中には、全世帯が撤去する予定です。

転居先は、みなさんにとって新しい地域です。

新しい地域で、新たな人間関係を築くことは難しく、また、気兼ねなく話せる知り合いが近所にいないこともあります。

このことは、被災した方々すべてにいえることだと思います。

 

住宅再建やまちづくりが進む中、被災者が体調に不安を抱える背景には、生活環境の変化があると思います。

「こころの復興に立ちふさがる孤立の壁」

「希望や夢を持たないと生きていけない」

「細るつながりの中で強く生きていく」

そんな話がふつうに聞こえてきます。

生活を含め、復興の最中での複雑な気持ち、孤立など、さまざまな要因がからみ合い、時間を経て哀しみが強まることを恐れています。

 

被災者の心の復興には、まだ時間がかかると思います。

「だれ一人、置いてけぼりにしない」

「社会の決意と思いやりが問われているのでは?」

「被災者の再建のステージに応じて、切れ目のない支援を行なうことが重要!」

そんなことを感じています。

 

被災者であり、山田町民でもある中村さん。常に住民の方々の心に寄り添って活動されていました

  

私ごとですが、私は以前住んでいたところではない地域に自宅を再建します。地域に早くなじめるよう、4月1日からその地域の老人クラブに入会しました。

震災前からの活動拠点だった集会施設「飯岡コミュニティセンター」がFIDRの支援で再建されるので、そこで老人クラブでの活動に取り組んでいき、新しいコミュニティを築いていきたいと思っています。

 

再建された「飯岡コミュニティセンター」。4月25日に開所式が執り行われます

4月10日:大槌町の漁業のいま(大槌町)


新おおつち漁業協同組合 代表理事組合長 平野榮紀さん

 

※新おおつち漁業協同組合のウェブサイトはコチラ

 

3.11東日本大震災により、漁船、養殖施設、陸上作業施設など、大槌町の漁業は壊滅的な被害を受けました。その折、新たに「新おおつち漁協」が発足し、FIDRからは漁協の経営安定を図るため、主力の定置網事業などに対して、多大なるご支援ご協力をいただき、共に町の漁業復旧の基盤整備を進めてきました。

 

おかげさまで、定置網、定置漁船、作業施設などが整備され、現在も漁業生産活動に不可欠な資機材や作業場として有効に使用させてもらい、季節ごとに美味しい三陸のサケ、ワカメ、アワビ、ウニなどの水揚げができているところです。

 

 

 

震災後の地区内の水揚げは、平成26年度は2,376トンで745百万円(うち定置網は981トンで359百万円)を最高に、数量金額ともに減少傾向にあり、平成30年度は1,958トンで519百万円(うち定置網は565トンで146百万円)となっています。

 

この要因としては、近年、定置漁業の主要魚種である秋サケと磯根漁業のアワビの漁獲量がふるわず、温暖化による海水温の影響や資源の減少が関係していると考えられます。

 

一方、組合員数も平成26年度の284人を最大に、平成30年度は256人と、高齢化や新規就業者が少ない状況のため、減少の一途にあります。

 

※平成26年度から平成30年度までの水揚げ数量、金額、組合員数の推移については、以下の表をご参照ください

 

 

漁業を取り巻く環境は、依然として厳しさを増しておりますが、いろいろな課題や新たな局面に対応しながら、組合員の生活の安定と、大槌町の漁業振興を役員一丸となって取り組んでまいります。

 

 

4月5日:まちの元気は大槌の海から!(大槌町)


NPO法人つどい 元持幸子さん

新おおつち漁業協同組合婦人部のみなさん。明るい笑い声がきこえてきそうな一枚です

 

※今回の記事は、NPO法人つどいの元持幸子さまのご協力で掲載しております。様々な活動をされている、NPO法人つどいのウェブサイトも併せてご覧ください。

 

3月になると、三陸沿岸部の漁港は、わかめの採取と出荷準備でにぎわいます。早春が旬となる「三陸わかめ」は震災前から三陸沿岸・大槌の自慢の特産物です。

 

震災から8年が経過し、三陸の海の恵みを活かしながら自然に向き合う海の仕事は、徐々に再開されてきました。

漁港に向かう海岸沿いの道沿いは、防波堤の工事や道路のかさ上げ工事も進行中。

 

漁港の整備も進み、漁家の方の個人所有の小型船舶がたくさん停泊するようになってきました。

大槌漁港には、FIDRからいただいた船舶も見られました。

 

 

 

新おおつち漁協婦人部、東谷さんの作業場を訪問し、今が旬のわかめの収穫の様子を伺いました。

 

吉里吉里漁港と大槌漁港には、沖で養殖しているわかめを水揚げするための、大きなイケスが並んでいます。

朝5時、わかめの養殖棚のある三陸沿岸沖に船を出し、取れたてのわかめを大きなイケスでお湯に通します。鮮やかな緑色になったわかめは、作業場に運ばれ、お母さんたちの手作業による芯抜き作業にバトンタッチします。

 

わかめの品質を確認しながら、わかめの芯の部分を取り除く、手間のかかる丁寧な作業です。

 

「今年は海の水温が高かったので、わかめの収穫量は少な目ですが、質の良いわかめを出荷しています」と、東谷さんは笑顔で話してくれました。

 

肉厚できれいな色のわかめは、味も歯ごたえも楽しめる大槌の自慢の一品を全国に送り出しています。

 

 

 

わかめの時期が終わると、6月には雲丹の出荷、その後はホタテの養殖作業が始まります。

 

三陸沿岸部の海の幸の「旬」を多くの方々に届けることは、漁業の再開とまちの元気の発信につながっています。

 

漁協婦人部では、三陸の味覚を味わってもらうため、サンマや鮭の大鍋料理でお振舞を行っています。

 

三陸の海の幸を手掛けている町の人たちの笑顔と誇りを、ぜひ多くの方に味わっていただければと思います。 

 

4月1日:山田の海から持続可能な社会を(山田町)


岩手山田湾 牡蠣養殖漁業 佐々木友彦さん

佐々木さんの仕事場

 

はじめに、FIDRには、東日本大震災での多大なるご支援をいただき、被災地の一人として深くお礼申し上げます。

 

山田町には2つの漁協があります。私が所属する「三陸やまだ漁業協同組合(旧大浦漁協、旧織笠漁協、旧山田湾漁協、旧大沢漁協が平成21年に合併)」と、船越湾漁業協同組合です。両漁協とも古くから、漁船漁業・養殖漁業・定置網・磯漁が盛んです。

 

山田湾は天然の良港であり、豊富な魚介藻資源に支えられ、漁業は発展し、漁業従事者や家族も多い浜でした。しかし、近年では、水産資源の減少と、国内消費を上回る利益重視の輸入水産物の影響で、大量でも安値、少量でも貧値の状況が続いています。そこに、東日本大震災の大津波で壊滅的な打撃を受けました。

 

しかし、行政・民間などの多岐なご支援を受け、漁港・防波堤・漁協設備・魚市場・水産加工業などと、経営体力の度合いによって進捗の差はあるものの、お陰様で復旧は進んできました。とはいえ、当地区の漁獲高も1980~1990年代をピークに下がり続けています。魚種別や地域別では好漁の漁家もありますので一概にはいえないのですが、全体的には閉塞感が漂っており、おのずと漁業従事者も減少傾向です。

 

私個人としては、震災をはさんで父の介護生活を6年し、父が他界してから出遅れた漁業の復興に取り組んで4年目となります。浜での漁業復旧の共同作業には、父の介護を理由にほぼ参加できませんでした。そのことは、私の漁業人生において大きな足かせであり、世間さまや同業者や漁協に多大なご迷惑をかけた思いが非常に強いです。

 

震災の復興でも、経済原則はかわらないので、資金力がある企業・漁家から優先に復興します。零細なものはその邪魔にならないように頑張るだけです。

 

私は、介護生活がどこまでも影響し、漁業復興の資金や共同の補助にも出遅れたので、体力が大幅に低下しました。結果、ホタテや牡蠣の種苗の購入はムリと判断し、現在は種苗代がかからない地種の牡蠣・ムール・アカザラ貝の養殖に転換しはじめました。大幅な養殖作業の変更なので、まだ安定していません。

 

作業中の佐々木さん

 

自分の漁業を行いながら、次のことにも取り組んでいます。

 

海になじみのない方々に、漁業の実情を知ってもらう山田湾を知ってもらう山田の魚介藻を食べてもらう消費者に買ってもらう

そのために、漁業体験や視察、メディア取材、宣伝PRにも力を入れています。

 

また、所属する「三陸やまだ漁協」のネットショップに「アカザラ貝」や「牡蠣」など生産物を出品し、「うたう漁師 友」として歌手活動も行っています。

 

(佐々木さんの出品された商品はこちらからお求めいただけます⇒「三陸やまだ漁協産直市場」)

 

 

今後の抱負や期待することですが、私もそうですし、漁家一軒一軒が漁業で生計を立てられる浜になることです。

 

そのためにも、持続可能な海資源を大事にしていくためにはどうすればよいか模索中で、漁種ごとに漁獲量を調整されることが望ましいと考えています。

 

また、ウニなどの食害での磯焼けによる漁獲減少は深刻な状態です。大型海藻(ワカメ・コンブ・カジメ・ホンダワラなど)、海草(アマモ類)、流れ藻(ホンダワラ)などの藻場は必要で、多様な生物の群落の再生が急務です。

 

山田だけではなく、各浜の豊漁のためには、全国の藻場の再生が必要です。

日本の豊漁のためには、全世界の藻場が必要です。

全世界の海岸の藻場が繁茂するためには、

保水力のある広葉落葉樹が生い茂り、腐葉土・フルボ酸鉄や有機物、チッソ、リン、ミネラルなどが適度に流れだし、自然が生き生きする山・川・浜辺が必要です。

 

そのためにも、目に見えない微生物から大型動植物に影響する有害化学物質の軽減はいうまでもないことです。

個人のモラルのタバコのポイ捨て、プラスチックごみの浮遊軽減、漁具資材廃棄物の処理費用の捻出、放射性物質など個人レベルではどうすることもできない有害化学物質の対策など、とにかく各分野での行動が必要です。また、ダムや護岸の大規模な工事も生物に影響が少なくなる工夫が必要です。

 

私は、小さな漁村から海や生物を通して社会を観ていきます。一人の大人としてはなはだ微力ですが、持続可能な社会を日々目指していきます。

 

 

3月27日:ひろがる地域の交流「花輪田地区集会所」のいま(大槌町)


大槌町花輪田自治会 会長 中村哲夫さん

2017年3月にFIDRの支援で完成した、大槌町花輪田地区集会所

 

私は、平成28年3月をもって海上保安庁を退職、現在は海事代理士等の仕事をしております。

自治会活動には平成23年から携わり、昨年5月から会長職に就いて花輪田地区の皆様のお手伝いをさせていただきながら、民生委員等としても活動しています。

 

花輪田地区への集会所建設は地区住民の長年の念願でありました。

東日本大震災後、この地区へ移転されてくる方も多く、地域のコミュニティをいかに確保するかが課題でありました。

 

そこへ、有難くも集会所建設をFIDRがご支援くださるとの話が役場よりあり、土地所有者や役場のご協力により、平成29年3月末に集会所がめでたく完成しました。

 

落成式が終わった後、町議会議員の方から、

「中村さん、これからはいかにこの集会所を活用していくかが課題ですね」

と言われたことを忘れてはいません。

 

落成式に出席されていた女性の方々からも、

「新しい集会所ができて、これからは皆さんでお茶っこでも飲めたらいいね」

という声もあがりました。

 

町の広報誌に入ってくる資料等で、町内各地区で「お茶っこの会」が開催され、地区の方々のコミュニティが図られていることを受け、われわれも「花輪田地区お茶っこの会」を立ち上げ、地域の皆さんとのコミュニケーションをとる場として活用させていただいております。

 

花輪田地区お茶っこの会は、1月と8月をのぞく毎月1回活動し、毎年1月には地区の新年交賀会を開催しています。

また、大槌町郷土芸能団体(大神楽)が地区内にあり、お祭り前やイベント前に練習の場として利用しています。

 

東日本大震災前は同じ地区に住んでいても声を掛け合うのは隣近所だけでしたが、集会所ができてからは、皆さんと1カ月に1回の顔合わせや、近況報告等を楽しみにしている方たちもあり、今後も地区の皆さんの交流の場として活用していきます。

 

(写真をクリックすると、活動年月、活動名がキャプションでご覧になれます)

 

3月22日:町を楽しもう!「大沢川向コミュニティーセンター」のいま(山田町)


 「やまだくじら大学(仮)」所属 道又夕夏さん

2016年12月にFIDRの支援で完成した、山田町大沢川向コミュニティセンター

 

私は山田町で「やまだくじら大学(仮)」という団体に所属しています。町民自らが町を楽しもうという、部活・サークルの寄せ集めみたいなものです。

 

活動の一環に、部活の枠を超えた「ミーティング」があります。大沢川向コミュニティセンターでは、これまでに2度開催しました。

 

1度目は、畳の「くじらの間」で座談会を開催。

アレを楽しみたい」

「山田町にコレがあったら」

「オランダ島でソレができたら」・・・。

 

 叶う叶わないはさておき、心の願望を口に出すのは気持ちいいものです。語り合うことで、人や物などがつながり、夢が叶うこともあります。

 

2度目は、広くて使いやすく、道具も供えられた「ほたてキッチン」で、山田産の食材を調理して食べました。蕎麦粉から出汁まで山田の食材で調理した蕎麦と、漁師さんから提供していただいた赤皿(貝)の酒蒸しです。参加者同士、地元食材の豊かさを再認識し合いました。

(そのときの様子はコチラ

 

やまだくじら大学(仮)には「ヨガ部」があり、ほぼ週一でDVDを観ながらヨガをしています。

 

三陸沿岸は交通の便が悪く、人口も少ない。

やりたいことがあっても、近場になくてあきらめることも多い。

 

畳の間にDVDプレーヤーがあるこちらの場所が、私たちにヨガの場所と機会を与えてくれました。

 

 

ヨガは自宅でできますが、集まってやることにも意義があります。

 

「自宅だとサボってしまう」

「わからないところを聞ける」

「忙しい日々、ヨガ後にみんなとお茶を飲みながらおしゃべりするのが息抜き」

 

メンバーの一人は、FIDRが以前に開催したイベントで知り合いました。このようなつながりにも感謝です。ありがとうございました!!

ヨガ部前身のヨガ教室の先生が、月1回程度、関東から教えに来てくれます。昼間に窓を開けて開放的にやれるのは、高台ならではの気持ちよさです。

 

私たちの活動以外では、この施設は地元住民のフラダンスサークルや法事、社協や老人クラブにも活用されているようです。

3月18日:五感で楽しむ体験プログラムで山田町の魅力発信(山田町)


 やまだワンダフル体験ビューロー コーディネーター 服部真理さん

 

東側は湖のように穏やかな山田湾と、三陸らしい絶壁・絶景の船越湾という、2つの湾に面し、西側は昔の日本の原風景そのままの里山が広がる、豊かな自然に恵まれている岩手県山田町。牡蠣・ホタテなどの養殖、ウニ、アワビ、サケ漁など漁業がさかんな町です。

 

東日本大震災による大津波と火事によって甚大な被害を受け、人口が一気に3,000人減りました。人口減少は震災によって加速しましたが、もともと減り続けていたのが現実です。

 

その対策として町では、震災後、交流人口を増やそうと体験観光(着地型観光)に力を入れてきました。山田町ならではの「遊び」「文化」「食」「人」に触れる体験を通して、「楽しい!」「おいしい!」と思っていただき、山田町ファンを増やす取り組みです。

 

まずは、地元の人が山田町の魅力を発見していくことから始め、モニターツアーの実施、講師を招いての勉強会、他地域の視察などを数年かけて行いました。平成27年には、地域にお金が落ちて持続可能な受け入れの体制づくりが検討され、平成28年に、「やまだワンダフル体験ビューロー」という体験プログラムの開発、受け入れサポート、情報発信、営業、お客様窓口を担うコーディネート組織ができました。

 

これによって、本業をしながらでも体験観光の受け入れをしたいと思っている町の人が、すぐに始められるようになりました。事業者さんがここにPRしなくても、町全体でプログラムの宣伝もできます。また、お客様にとっては、それぞれの体験プログラム受け入れ事業者に問い合わせをせずに、ひとつの窓口でお申込みできる、というメリットもあります。

 

震災から8年、プログラムも増え、山田町に観光客の姿が見られるようになりました。これから三陸鉄道も通り、南北をつなぐ三陸沿岸道路、東西をつなぐ復興道路もできると、アクセスが大変良くなる半面、通過されてしまう町になる可能性もあります。

 

そうならないためには、いまが正念場。山田町に体験観光受け入れに協力している町の人が一丸となってがんばっているところです。

 

ここから、現在実施している人気プログラムをいくつかご紹介しましょう!

(詳細はコチラをクリックしてホームページへ!予約もできます)

 

漁師さんの船で行く 養殖いかだ見学

山田湾に無数に浮かぶ養殖いかだ。山田町は、おいしい牡蠣とホタテ養殖で有名な町です。その養殖いかだに行って、牡蠣やホタテがどのように育てられているか、見学します。漁師さんの仕事と海が育む食の尊さを知ると、もっともっと牡蠣やホタテが美味しくなるかも!(プログラムの詳細・お申込みはコチラ

木村商店の「いか徳利」体験

山田町の代表的な特産品といえば、木村商店の「いか徳利」。温めたお酒を入れて飲むと、いかの風味がいっぱいの美味しいお酒になります。社長であるトシかあさんが、この「いか徳利」のつくり方を指南します。特製汁物サービスがあります!(プログラムの詳細・お申込みはコチラ

復興まち歩きつまみ食いツアー

山田町の商店主がガイドをつとめる「震災まち歩き」に、町の美味しいものを数種体験試食できる「つまみ食い」をつけました。復興真っただ中の町の中心部を歩きながら、震災前、震災、現在、そして未来をご案内。美味しいものを食べて楽しい気分になる、山田町ならではの震災ガイドです。(プログラムの詳細・お申込みはコチラ

 

そのほか、山田町のピザづくり体験、そば打ち体験、シーカヤック体験、さをり織り体験、野菜収穫体験などもありますので、ぜひホームページをご覧になってください。ホームページから予約ができます。

 

これからも、山田町の応援をよろしくお願いします! 

3月8日:集会施設の再建支援を行っています(山田町)


FIDR広報啓発

 

FIDRは、現在、最後の支援活動として、岩手県山田町で2棟目となる、飯岡・長崎地区の集会施設「飯岡コミュニティセンター」の再建に取り組んでいます。

 

町では、不通となっていたJR山田線(宮古~釜石間)が三陸鉄道に移管され、3月23日、8年ぶりに運行を再開します。

オランダ風車がシンボルマークの陸中山田駅舎。震災で失われた線路と駅舎の再建は、町民の念願でした

駅周辺には、災害公営住宅が建ちならび、ようやく自宅の再建を始めた方もいらっしゃいます。

 

飯岡コミュニティセンターは、町内で最も世帯数が多い飯岡・長崎地区の方々が集う拠点として、駅近くの元の場所に建設され、4月上旬に竣工を迎えます。

 

完成後は、災害公営住宅の入居者、避難先から再建した自宅に戻ってくる方、町の山側にお住まいで津波の難を逃れた方など、さまざまな立場の方が集い、新しいコミュニティを築く拠点となることが期待されます。

 

建設が進む飯岡・長崎地区の「飯岡コミュニティセンター」。完成までもう一歩!


FIDRの東日本大震災緊急・復興支援

支援の詳細についてはコチラをご覧ください。